2020年読了9冊目
カルチュラル・スタディーズとは、「文化と政治の関係を問う批判的な知の営み」というのが基本的な認識である。ただし、カルチュラル・スタディーズは文化の政治性を問うことだけに限定されず、文化の構築や変容、交渉のプロセスを実践的かつ歴史的、ないしはエスノグラフィックに洞察していくことである。(本書より)
自分が触れて染まってきた文化について考えたくて読んでみた本。
私が生まれた1950年代は「アメリカ愛憎時代」で、時中の「アメリカ」に対する不安(憎悪)が憧れに反転し、生活感覚ではアメリカをいずれ獲得すべき手本として生きた時代。
私は幼少だったので記憶は薄いけれど、時々食卓に出てくるカレーライスや、フラフープなどの遊具に魅せられていた時代。
1960年代は「アメリカ文化浸透時代」で、高度経済成長を背景に、アメリカ的生活様式が平均的な日本人の生活に広く浸透していった時代。
私は小学生から中学生で、家に生活家電(冷蔵庫・洗濯機・TV・レコードプレイヤー・テープレコーダーなど)が揃っていき、ハンバーグやパンが食卓に上ることが増え、ビートルズの来日以降、ビートルズやグループサウンズに熱を上げた時代。
1970年代は「アメリカと日本の文化が溶融して同化した時代」で、アメリカと日本のどちらの文化かの区別が難しくなる。
私は高校生から社会人で、VANのアイビールックを着て、ホンダに乗り、マクドナルドやケンタッキーで食事をする。そして夜にはディスコでソウルトレイン。
その後のジャパンasナンバーワンの時代にはアメリカ文化の輝きが色褪せていく。
そんな時代を生きてきたなぁ、と思いつつ、著者の問いについて考え込んだ。
「異なるプラットフォームに媒介されて分立するコミュニケーション世界の間の抗争が問題」であり、「ネット上のコミュニケーションが現実の社会的行動に直接転嫁されやすいことによる影響が増大している」ことであり、「ネットにおけるコミュニケーションの瞬間性に孕まれる問題」についてが、カルチュラル・スタディーズが取り組むべき問題である。
新聞・TVをオールドメディアとして遠ざけてしまうと、また、ネット検索に頼ってしまうと、偏った文化を全体と思い込まされてしまう危険性がある。これを自覚することが重要なのだろう。